第15章 宗教
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毎年秋になると、アメリカとカナダ南部のオオカバマダラというチョウはいっせいにメキシコの越冬場所を目指して南下し、3月にまた戻ってくるまで木々の中で冬眠する(正式には虫における冬眠のようなもので休眠である) アフリカのセレンゲティ平原では、ヌーの巨大な群れが緑の草地を求めて定期的に場所を変える「大移動」が繰り返される オーストラリア領クリスマス島のアカガニは一年のほとんどを島内部の森林で過ごすが、10月になると交尾と産卵のために海岸へ移動する 動物の大移動は地球上でもっとも見ごたえのある迫力に満ちた自然現象のひとつ
毎年5日間、世界中の何百万人というイスラム教徒が聖地メッカに集まる
巡礼者を突き動かしているものは通常の生物学的な動機ではない
オオカバマダラのように過ごしやすい気候を求めているのではない
実際、メッカは耐えられないほど暑い
動物の生存と生殖のための努力という観点から見れば、ハッジはとてつもない資源の無駄遣いのように思われる
これほどまで脳のなかのゾウを見事に描き出しているものはないかもしれない
信仰と崇拝ほど、自分の目的を勘違いしている領域はほとんどないだろう
ヘンリー8世が信仰心を装って最初の結婚を無効にしようとしたとき、あるいは宗教指導者らが帝国主義的な聖戦に乗り出すとき、彼等の動機を疑問視することは許されよう
16世紀の外交官Ogier Ghiselin de Busbecqはスペイン人征服者を指して「宗教は口実で黄金が本当の目的だ」と述べた(Forster, 2005) けれども、人々が神の名のもとに行うほとんどのものごとはそれほど露骨なご都合主義ではない
もっともつつましやかで真剣な宗教活動においてさえ、利己主義の論理が存在する
宗教の不可思議
ハッジはひときわ目立っているかもしれないが、宗教の名のもとに印象的な行動をするのはイスラム教徒だけではまったくない
多くはまったく非生産的で、貴重なエネルギー、資源、また繁殖力や健康までもを無駄にしている
極端な宗教活動はさらに目を引く
たとえば、チベット仏教の僧侶は何週間も平らな面に身をかがめ、最新の注意を払って、何百万もの色付けされた砂粒を並べて入り組んだ「砂曼荼羅」を作り、ほとんど完成と同時にそれを壊す
さらに進化論的な観点から見れば驚くことに、これらの僧侶は、ほかの多くの伝統的な宗教の指導者と同じように、清貧と貞操を誓い、事実上出世競争と遺伝子を残す競争に背を向けている
実際には、宗教が提起する主な謎はふたつ
行動に加えて、信仰という不思議な信念の寄せ集めも説明しなくてはならない
信念で行動を説明できるか
不思議な超自然的な信念が不思議な行動の原因だと仮定して、このふたつの謎をひとつにまとめてしまいたい気持ちはよくわかる
神を信じるから教会に行く
おそれるから祈りを捧げる(パスカルの賭けを参考にされたい)
そうなれば、残るはその信念がどこからやってきたかという説明だけ
これを宗教行動の「信念が先のモデル」と呼ぶことにしよう
実は人類学者と社会学者のほとんどはこのような見方を示していないが、それでもこれは一般に普及している考え方
その理由はこれがきわめて直感的だから
たとえば有神論者と無神論者の討論では、たいていの場合、神が存在するかしないかの証拠が焦点になっている
しかしながら、本書でこれまで見てきたように、信念が必ず運転席にいるとは限らない
むしろ、信念は根底にある動機の現れとしてモデルにあてはめるほうがうまくいくことが多く、その動機はたいてい心理的というより社会的だ
社会的な動物としての自分にとって有益だから信仰し、そして信じる
宗教がいかに戦略的かを論じる前に、信念が先のモデルを大局的に見ておくことが役に立つかもしれない
まず、すべての宗教が教義に重点をおいているとはかぎらない
ほとんどの宗教は、信者がその宗教を公に受け入れていることを示していれば、個人的に信じているかどうかは厳密に追求しない(Rappaport, 1999) 古代ギリシアや古代ローマのような昔の宗教は「ゼウスがオリュンポスの神々を支配している」というような教義上の主張にはあまり関心がなく、祝日には祝典に参加するというような儀式の遵守が重要視された
ヒンドゥー教、ユダヤ教、神道などの宗教は、超自然的な存在に関する一連の信念であると同時に民族性と文化的伝統でもあり、当該の神々の存在を実際に信じていなくても人々はその宗教の一員として全面的に受け入れられる
たとえば多くのユダヤ教徒は自分自身を無神論者と考えているが、それでも神殿を訪れ、食事規定のコーシャを守り、大祝日を祝って、ユダヤ教の週間を続けている
同時にわたしたちは、宗教的あるいは狂信的と思えるけれども、超自然的な信念とはまったく関わりのない様々な活動にも従事している(Anderson, 2006) アメリカの児童生徒が国旗に向かって忠誠の誓いを唱えるとき、それは単なる「愛国心」だ
同様に北朝鮮で起きていることを見ると、それを宗教と比較せずにはいられない
ほかにもまるで宗教のように信仰されているものの核として、アップルのようなブランド、政治のイデオロギー、友愛会や社交クラブ、音楽のサブカルチャー、フィットネス団体、スポーツチームなど
それらの行動パターンがきわめて一貫しており、また超自然的な信念が存在しなくても発展しているという事実から、信念が二次的な要因であることが強く示唆される
著者は人は一般に自分にとってよいことを直感的に判断できると考える
たとえ論理だてて理解していなくても
特にもごのごとが自分に都合のよいように進んでいるのか、それともひどい目にあっているのかと考えるような状況において、人は具体的な自分の利益に対して鋭い感覚を持っている
したがって、多くの人のように、信者が宗教にはまって抜けられない、あるいは抑圧されていると感じている場合には、それはおそらく正しいだろう
新無神論者(Dennett, Dawkins, Harris, Hitchens)が詳しく述べているように、宗教の欠点はほかにもいろいろあげられるが、長所と短所を積み重ねて宗教全体を評価することは本書の目的ではない
重要なのは、必ずしも種全体のためにならなくても、宗教が信者の役に立つ場合もあると知ること
宗教への参加が利己的な個人戦略であると考えることと、宗教そのものが世界にとって悪いものであると考えることは両立できる
けれどもほとんどの時と場所で、人は宗教に強烈に引きつけられる
そして著者は、そうした人々は自分にとってよいことをわかっているものとして、彼等に理解を示したい
「(宗教参加の謎)を解明するためには、信心深さが有益である(あるいは少なくとも有益だった)と認めるか、そうでなければ、すべての文化圏の人々が適応の波に逆らってこれほど自分にとって有害な宗教行為に走ることについて、複雑で多段階な説明を構築しなくてはならない(Haidt, 2012) 実際、毎週教会に通っている人の大部分は、社会にうまく適応しており、幅広い分野で成功している
宗教に関係のない人と比べて、信心深い人はあまりたばこを吸わず(Strawbridge et al., 1997)、寄付とボランティア活動が多く(寄付: Schelgelmilch, Diamantopoulos, & Love, 1997; ボランティア: Becker & Dhingra, 2001)、交友関係が幅広く(Strawbridge et al., 1997)、結婚するだけでなくそのまま結婚生活を続けることが多く(Mahoney et al., 2002; Strawbridge et al., 1997; Kenrick, 2011)、子どもが多い(Frejka & Westoff, 2008; Kenrick, 2011) 「さまざまな評価から、宗教を厳守するアメリカ人は無宗教のアメリカ人と比べて、よき隣人、よき市民である。とりわけ困っている人を助けるためなら点で自分の時間や金銭を惜しまず、コミュニティ生活においても積極的だ」(Puntnam & Campbell, 2010) 確かにこれらは相関関係にすぎず、ある程度までは、健康でうまく適応している人のほうが宗教に関わることが多いということなのだろう
それでもこのデータは、宗教が概して信者に害を与えるという考え方とは一致しない
社会システムとしての宗教
宗教を真剣に研究している学者によると、宗教を信じることにつながる社会的動機づけはコミュニティ これはDurkheimではない可能性もある。それでもこれは彼のものの見方、特にDurkheim 1995で述べられている考え方を見事にまとめた一言である
こうした見方をすれば、宗教は個人の信念ではなく、むしろ共有された信念であり、さらに重要なことに共同社会の慣行なのだ
それらの重なり合った断片がともに作用して強い社会的動機を作り上げ、宗教コミュニティ全体が利益を得られるような方法で個人に(利己的に)行動させるのだ
そして最終的には団結力の強い、協力的な社会集団を作り上げる
つまり宗教は、たんに神と来世に関する一連の命題的な信念ではなく、完全な社会システムなのである
宗教を正確に、あいまいな部分を残さず定義しようとする学者はほとんどいない。あまりにも境界線上の例が多すぎる。そこで学者は宗教を相互に関係する特性の集合体として結びつけようとしている。
宗教の定義の例
「知性、美、敬虔、儀式、制度戦略で補強された話が中核となっている自然な社会システム」(Rue, 2005) 「超自然的な力、感情が吹き込まれたシンボル、意識変容状態、儀式的パフォーマンス、通念、タブーへの傾倒からなる(けれどもそれに限られない)不明瞭なもの一式(Sosis & Kiper, 2014) https://gyazo.com/9cdcf2833c81f7b32ba6543d6b9f8448
コミュニティの論理
コミュニティはそのなかで暮らす人々に恩恵を与える
そうでなければ、だれもが思い思い勝手に暮らすはずだ
数が多いことで得られる安全性あるいは経済的な専門化といった、そのうちのいくつかの恩恵は、たんに集合体の利点としておおむね無償で与えられる
けれども他の多くの恩恵を受けるためには、各個人が協力という名のもとに自分の狭量な私欲を捨てなければならない
残念ながら、協力は難しい
平和で規則を守る協力者だらけの集団は私利を図る絶好の場
宗教の世界のいかさま師は様々な形をとる
きわめて敬虔であると見せかけて機会があるごとに他者を虐待するような、ヒツジの皮をかぶって群れを狙うオオカミのような人間がいる
ただ乗り
したがって、協力の恩恵をしっかりと受けるためには、コミュニティに不正を食い止めるための強固な仕組みが必要
しかし、監視、陰口、罰という規範を守らせる標準的な手法にくわえて、宗教にはさらにいくつかとっておきの方法がある
犠牲、忠誠、そして信頼
森の中にたったひとりで暮らす人間には、せっかく資源を手に入れておきながら、それを敢えて捨てたり燃やしたりする行動はけっして意味をなさない
ところが、その場にあと数人の人間がいると、突如としてそれが完璧に理にかなった行動になる
なぜなら、犠牲には社会的な魅力があるからだ
「完璧に合理的な人間であるわたしにとって、資源を手に入れておきながらそれを無駄にするなどということは、経済的にまったく意味をなさない。けれども、集団という状況なら、不思議に思えるかもしれないが、それが効果的なことがある」(Roberts & Iannaccone, 2006) ナンバーワンになることばかり考えている人と、他者の利益のために喜んで犠牲になる忠実な人のどちらのほうがよい同盟相手になるか
友人や家族はつねにたがいのために犠牲を払っている
けれども、つかのまの一度限りの関わり合いで出会うすべての人に対して犠牲を払うことはできない
そこで宗教が行き当たった解決策は、参加者が集団の名において行う儀式的な犠牲だった
名目上、多くの犠牲は神に捧げられているが、デュルケームにしたがえば、神とはしばしば社会のシンボルである
そこで、人があなたの神に対して犠牲を払うときはいつも、暗にあなたと、同じ祭壇に礼拝しているほかの人すべてに対して忠誠を示していることになる
「宗教は集団のメンバーに犠牲を伴う行動パターンを共用することで集団内の結束を維持している。そうした犠牲を伴う行為は、集団とそのメンバーの信念に対する献身と忠誠のシグナルになる。ゆえに、集団メンバー間の信頼が強化され、コストのかかる監視メカニズムを最小限に抑えることができる。そうでなければ集団で何かを達成しようとするさいにつきまとうただ乗り問題を克服しなければならない」(Sosis & Alcorta, 2003) きわめて重要なことだが、犠牲の儀式はコストがかかるため、でっちあげることが難しい正直なシグナル
「わたしはイスラム教徒です」と口で言うのはたやすいが、完全な信頼を得るためにはイスラム教徒らしく行動することも必要
コストの高い行動ほど雄弁
つまり個人の犠牲は社会集団に対して「会費を払う」ようなもの
集団によっては、新入生のしごきや軍隊訓練の入団儀式のように最初に大きな支払いを求める
入る時に障壁を設けて新人に大きな費用を払わせることで、集団はもっとも熱心で忠実な人間だけをメンバーとして迎え入れることができる
「本気ではないメンバーをあぶり出し、残ったものにより高いレベルでの参加を促すことで、根拠のない犠牲が宗教のただ乗り問題を軽減する機能を果たしているということが、正式にまた敬虔的に示されていると考えられる」(Iannaccone, 1998) 通常の宗教儀式も同じように作用するが、最初に大きな費用を求めるのではなく、週あるいは年払いで会費を払うように継続して少額を納めさせる
こうした犠牲の儀式は、どのような資源を犠牲にするかによって様々な形態をとる
たとえば、神々のために聖堂に捧げられる動物のいけにえ、献酒、あるいは果実など、「もの」は一般的である
「金銭」は施し、十分の一献金、その他の事前行為を通して捧げられる
断食や、自分を鞭打つなどしてより目に見える形で行う身体的な苦行では、「健康」が犠牲にされる
たとえば、イスラム教徒の一部はムハラムの期間中に鎖、剣、ナイフなどで血が流れるほど自分の体を叩く
医薬品、アルコール、特定の性行為、あるいはカトリック教徒が四旬節にチョコレートを控えるなど、宗教の名のもとにある種の「快楽」を差し控えることもある
おそらくもっとも簡単に無駄にできる資源は「時間」と「労力」で、これらは豊富に捧げられている
例として、週に一度の教会、ユダヤ教の服喪、先に述べたチベット仏教の砂曼荼羅
人々がなぜ教会の礼拝中にインターネットを閲覧していないのかもこれで説明できる
イエス・キリストは使徒の足を洗ったことでよく知られている
お椀型の帽子ヤムルカをかぶるという単純な行動でさえ、ユダヤ教徒にとっては神の前で謙虚になるための象徴的な方法
それほど象徴的でなくても、多くの慣行は部外者にわかるように信者に烙印を押す役目を果たしている
「繁殖力」は頻繁に犠牲にされることはないが、宗教指導者が禁欲を誓う場合など、ひとたびそうなったときには犠牲が大きい
小さな繁殖力の犠牲として、一部のキリスト教徒のティーンエイジャーは結婚まで性交をしないことを公に約束するものとして純潔の指輪をしている
大きな信頼と権力を持つ地位は大きな犠牲を強いられる
もしローマ法王に子どもがいたら、法王の忠誠が子どもと信仰に二分されてしまうため、カトリック教徒は協会の指導者として法王を信頼しにくくなるだろう
歴史的に見て宦官が特権的な地位にあったこともうなずける
儀式によっては、複数の資源がひとつの犠牲行為にまとめられているものもある
ハッジのような巡礼は、イスラム教への献身を強固なものにするために、時間、労力、金銭、ときに健康をすべて「無駄にする」盛りだくさんの犠牲
この献身的な行動と引き換えに、巡礼者は地元でも世界でも、イスラム教徒のあいだでより大きな信頼と高い地位を得る
しかしながら、コミュニティが与えることのできる社会的報酬には限界がある
人々は自分が他者より忠実であることを示そうと、「聖人」の軍拡競争に陥る
そして予想通り、これが生物学の世界に見られるような一種の極端なディスプレイと誇張された特徴につながる
重要なことに、犠牲はゼロサムゲームではない
コミュニティ全体が大きな利益を得る
こうした犠牲はみな、コミュニティメンバーのあいだに高水準の献身と信頼を維持する役目を果たすため、最終的にはひとりひとりの行動を監視する必要性が下がる
結果として、大きな規模で長期間、協力的な集団を持続させることができる
今日、見知らぬ人との信頼関係は、契約、財政的な信用度、紹介状などによって促進される
けれども、そうした制度が導入される前は、週に一度の礼拝など、コストの掛かる犠牲がなくてはならない社会技術だった
西暦1000年には教会に行くことが他者の信頼度を推し量るためのきわめてすぐれた方法だった
教会に来ない隣人はコミュニティに対する義務を払っていないのだから、警戒されて当然だろう
現代においてさえ、宗教儀式は重要な社会的合図であり続けている
一例を示すと、アメリカ人は無神論者を大統領にしようとしない
たとえば2012年のギャラップ世論調査では、選出にふさわしい順位として、無神論者はヒスパニックや同性愛者など社会的に周辺に追いやられている人々からも大きく引き離されて最下位だった(Jones, 2012) 向社会的規範
すべてのコミュニティと同じように、宗教も個人の行動を縛る規範に満ち溢れている
規範はコミュニティ全体にとっても個人にとっても、きわめて有益だ
一部のメンバーにとっては暮らし向きが悪くなる可能性もある。
たとえば、宗教がなければ集団を支配できるかもしれないアルファ・オスがそうだろう。また、誰もが自分勝手に不正を働いたり規範を破ったりしようとするようになるだろう
けれども、集団に参加して規範を守るか、規範のない別の集団に参加するかの、どちらかを選ぶのだとしたら、規範の厳しい集団に参加する方が、ほとんどの人にとっては暮らし向きはよくなる
特にそれが、集団が直面している経済的および生態的状況にうまく対応している場合はそう
一般的な二つの宗教規範
一つは他者の扱いに関するもの
世界中のおもだった宗教はしかるべく、窃盗、暴力、不正行為を非難し、思いやり、許し、寛大さといったよい行いを賞賛している
たとえば慈善はイスラム教の大きな柱のひとつであり、キリスト教徒は「隣人を愛する」、あるいは悪事を受けたあとに「もう片方の頬も差し出す」よう戒められている
ジャイナ教徒は虫をも含むすべての動物にまで範囲を広げた極端な形の非暴力を実践している
こうした協力的で立派な行動にはみな利点がある
立派な人だらけの集団は卑劣な人だらけの集団より競争で勝つことができる
当然のことながr,あ問題は不正行為者が集団にダメージを与えるのをいかに抑えるかということ
解決策のひとつは、これまで見てきたように、あまり熱心ではない人を集団から排除するために役立つコストの高いシグナリング
けれどもそれと同じくらい重要なのが、第三章で取り上げた規範執行のメカニズム、すなわち監視と罰
宗教コミュニティが実際には非難、村八分、石打ちなどの方法で頻繁に違反者を罰していることに注目してほしい
事実、この二つの戦略は互いを強化している
長い年月をかけてたくさんの会費を払い、たくさんの友人を作り、たくさんの社会資本を積み上げたあとで、その集団から追い出されると思うときわめて恐ろしい
もう一つの重要な宗教規範は性行為と家族生活を規定している
人間の交配パターンは世界各地でさまざまに異なり、資源の有無、性別の比率、相続の規定、子育ての経済など多くの要因に左右される
特に興味深いふたつの戦略は西側諸国の多く、とりわけアメリカの分裂によく表れている
一方にあるのは、伝統を重んじる宗教右派が求める交配戦略で、早婚、厳格な一夫一婦制、そして大家族
他方リベラルで世俗的な左派が追求する戦略は、晩婚、ゆるい一夫一婦制、小家族
このふたつの交配戦略のうち、伝統的な方は、コミュニティの規範を強化することで利益を得られるため、結束の固いコミュニティにおいてもっともうまく機能する
そのため、宗教コミュニティは、避妊、堕胎、離婚、婚前や婚外の性行為など一夫一婦制と多産を妨げるものすべてに眉をひそめがち
マスターベーションの禁止でさえ早婚を魅力的に見せる方法として理解できる
この交配戦略にしたがおうと思う人は、同じような考えの人と一緒に全員で足並みをそろえるのが最適
コミュニティ全体が同調すればたくさんの利点がある
赤ん坊はふたり親世帯で生まれて育てられ、父親は自分が実父であることに自信を持つことができ、配偶者が浮気をしないかどうかに目を光らせるためにエネルギーを使わなくてすむ(Kenrick, 2011) 世俗的な心の持ち主にとって、避妊に反対するといったこうした規範の多くは、特に道徳的な面でまったく理不尽
けれども結束の固いコミュニティでは、各女性の「個人的」な選択は社会的な影響を伴う
もしある人が避妊をすれば、おそらく結婚が遅くなり、高い学歴を取得して、立派で金銭的な報酬の多い職業につくだろう
それは近所に住む伝統的な家族志向の隣人にとってはショックなことである
ひとりのライフスタイルがそれ以外の人々の生活に干渉する
そしてそのような緊張状態の回避こそが、そもそもみずから進んで特定のコミュニティに帰属しようとするおもな理由
同調式の儀式
並んで行進する、声を合わせて歌ったり唱えたりする、リズムに合わせて手を叩く、あるいは同じ服を着ることもそこに含めることができる
日本企業の一部は現在でもそれを実践している
まず学生のグループに、校内をともに行進するなど動作を合わせる動きを行わせてから、グループの利益のために個人が意欲的にリスクを引き受ける度合いを測る目的で「公益」ゲームをさせた
もちろん、宗教はこの効果をうまく利用することに熱心である
主要な宗教的伝統のほとんどには同時に行う動きがある
そして現在でも殆どの集会では超えをそろえて詠唱したり歌ったりする
クエーカー教徒の集会や、あるいはざわめいていた信徒が一時的に沈黙して静かに祈るときのように、沈黙を共有することによっても連帯意識を高められる
説教
宗教コミュニティ内で協力を促進するために説教が役立つことは容易にわかる
けれども説教はたんなる教えではなく、その効用には啓発以上のものがある
それは儀式、すなわち、社会的な現実を一変させる手段
人々は出席するだけでその儀式に参加している
説教に参列しているとき、人はただ受け身になって情報を獲得しているのではない
説教のメッセージはむろんのこと、牧師のリーダーシップ、コミュニティの価値、組織全体の正当性も暗に是認している
ただ参列するだけで、自分が教会を支持し、その基準を守ることに同意していると、参列者全員に知らしめている
牧師が信者に思いやりの美徳に着いて話しているとしよう
一個人としてどのような行いをすればよいかについて個別の助言をもらっているだけではない
もしそれが説教の重要なポイントだとしたら、Podcastで聞いてもよいはずだ
むろん、たくさんの人がポッドキャストで説教を聞くことを楽しんでいるが、それはむしろ例外だ
本当の利益は参列者全員がそろって聞くことにある
説教はコミュニティの規範について「共通知識」を作り上げているのである そして説教の参列者は全員、その後の行動でその基準を守ると暗黙のうちに同意している
知らなかったという言い訳は通用しない
この相互の責任が宗教コミュニティをあれほどまで結束させ強調させる原因
良くも悪くも、このからくりは論争の的になるような規範でも機能する
たとえば牧師が避妊と同性愛を激しく非難した場合、あなた個人はそのメッセージに賛成しないかもしれない
けれども、十分な数の人間がブーイングするか反対意見を述べるかしないかぎり、その規範は共通知識のなかに残ってしまう
バッジ
コミュニティに参加したときの様々な利益を考えると、参加者を部外者と区別できたほうがメンバーにとって都合がよい
コミュニティの規模が大きくなって複雑さが増すほど、この問題は重要になる
小さな狩猟採集民の集団で数えるほどしか近隣集団がなければ、だれもが顔や名前を知っており、まったく見知らぬ人に出会うことはめったにない
けれども、移民の貿易者や労働者であふれかえっている巨大な農業帝国や産業文明では、見知らぬ人を見てすぐ評価できることのメリットは大きい
バッジ
バッジとはグループの一員であるという情報を伝える、目に見えるシンボル
より一般的にはバッジは集団のメンバーシップだけでなく、際立たせたい特徴についての情報を何でも伝えることができる。概論についてはMiller, 2009を参照 宗教では特別なヘアスタイル、衣装、帽子やターバン、アクセサリー、タトゥー、ピアスなどもバッジの部類に入るだろう
さらには食事の規定、そして正午や食前の祈りなどの決められた行動も、どの宗教に属しているかを他者に伝えているため、バッジとして機能していると考えられる
宗教バッジは自宅や教会で強化されるが、バッジとしての価値が最も高いのは市場や広場などの公共の場所
たとえば、ヤムルカをかぶったパン職人なら、異なるふたつのメッセージを異なる二集団の聴衆に向けて発している
仲間のユダヤ教徒からさらなる信頼を得ようとしている
同時に非ユダヤ教徒に対しても、正当なユダヤ教の行動基準にしたがって行動するというメッセージを送っている
こうしてみると、バッジはブランドに似ている
超自然的な信念
ここまでくれば、超自然的な信念を単なる迷信と考えるのではなく、それらが協力しようと四苦八苦しているコミュニティで有用な機能を果たしているかもしれないと理解することができるだろう
これは特定のコミュニティがわたしたちの認知の癖によって形作られている可能性を否定するものではない。けれえども、ほかの超自然的信念とは違って、宗教的信念は批判的内省によって排除されることがなく、むしろ宗教システムにおける不動の中心的特徴になっている理由を説明するにあたって、この項が役に立つ
第5章 自己欺瞞で指摘したように、特定の信念を持つことの価値は、それにしたがって行動することではなく、自分がそれを信じていると他者に思わせることにある 宗教の信念においては特にそれが顕著
信念はばらばらな個人にとってはたいした効果もなければ実用的でもない
けれどもそれを受け入れれば大きな社会的報酬を得ることができ、受け入れなければ罰せられる
これこそが、信仰が一般的な慣行になる証し
しかしながら、なぜコミュニティは信念にこだわるのか
道徳を説く全能の神を信じると考えてみよう
この種の信念を分析するためには3つのステップが必要
神に背くと罰を受けるおそれがあると信じている人は、信じていない人と比べてよい振る舞いをする可能性が高い
したがって自分が神を信じ、不服従の危険を信じていると他者に思わせることは全員の利益になる
最後に、第5章で論じたように、自分はこう思っていると他者に信じさせる一番の方法は、自分が本当に信じることである
同じような理由から、神はいつも見ており、隠し事や心の奥底まで見通していて完全な正義で裁くと信じることにも効果がある
そのような神を熱心に信仰すればするほど、どんなときでも、ほかの人間が見ていないときにさえ、正しい行いをする人物として知られるようになる(もちろん、不正が見つかったときの怒りは大きくなる)
この種の評判は、人々が指導者として仰ごうとする人物に備わっていると、とりわけ魅力的である
ぎりぎりのところで、信仰心は信じる人に道徳的な行動を促す
そしてまったく自己本位的な生き物の観点から見れば、その余分な「よい」行動は望ましくないコストである
脳にとって理想的な状況とは、自分は神の怒りを恐れていると相手に信じ込ませながら、神などまったくおそれないような行動を取り続けること
けれども人間の脳は、とりわけ他者が自分の考えをつねに探り続けている状況で、そのような完璧な偽善をやり抜けるほどパワフルではない
そこで次に最適な状況は大抵の場合、ときおり誘惑にかられてしまう程度に矛盾しながらも信念を自分のものにしていしまうこと
道徳を説く神の信念についてはこれでだいたい意味が通るが、依然としてその他の多くの超自然的な信念を説明しなければならない
そうした信念の一部は明らかに、各宗教の社会制度面を強化するために役立っている
たとえば、ムハンマドが最後の預言者だと信じることは、混乱をもたらす新しいお告げがそれ以上出てこないようにするにあたって好都合だ
キリスト教では、神と一般信徒の仲介役として聖職者が必要であると信じることが、教会組織における聖職者の役割を決定している
そのような信念の利点は見ればすぐわかる
すなわち、神学という名の政治
それでもなお、いくつかの信念はまったく任意であるように見えるにもかかわらず、ほかの信念と同じように熱く議論されている
たとえば、一部のキリスト教宗派では、洗礼は救済のためになくてはならないものだと信じられているのに対して、別の宗派ではむしろおまけのようなものだ
その一方で、三位一体の本質や、聖餐では本当にパンがイエス・キリストの体になるのかといった不可解な教義の詳細について、果てしなく激しい議論が続けられている
実体変化はパンとワインが本当にキリストの肉体と血になったとする考え方で、共在説はパンとワインの物理的な属性はそのままだが、魂としてだけ肉体と血になったとする考え方
もしかすると、それらは特定の宗教や宗派で忠実である証しとしての、バッジの役目を果たしているのかもしれない
本書では信仰 faithという言葉を宗教的な信念という意味で用いているが、もともとは信頼や信用という意味である
優れたバッジからは忠実性に関するもっとも重要な問いへの答え、つまり仲間か仲間ではないかがわかる
したがって、そうした信念もまた、哲学的というよりはむしろ政治的な役割を担っていることになる
そう考えると、多くの伝統的な信念は先に述べた帽子やヘアスタイルの規定のようなものである
一貫していて目につきさえすれば、根拠はなくてもかまわない
そして、その信念が偶然にも、信じない者の目に少しばかり奇異で人を辱めるようなものに映る場合には、それは犠牲としての役割も果たす
これはスポーツ観戦に似ている
ドジャースよりジャイアンツが好きということに自己本位な物質的根拠はないというまさにその理由から、特定のチームの応援は地元コミュニティへの忠誠を示す大きなシグナルの役目を果たす
もしあるチームを他のチームより好む実質的な理由があるなら、そのチームのファンであることは、特定コミュニティへの忠誠ではなくかぎられた個人的な利益を反映していることになる
同じように、宗教的信念の奇抜さは、神聖な核をどれだけしっかりと取り囲むことができるのか、良識や常識を抑えて忠誠を示す信徒に対してどれほど大きな報酬を与えられるのかといった、コミュニティの結束の強さを示すバロメーターである
たとえば、モルモン教の教えの独特な奇妙さは、モルモン教の道徳を共有するコミュニティの並外れた力の表れである
まさにそうした高いコストこそが重要なのである
禁欲と殉教
本章で論じてきたほとんどの宗教行動には適応性がある
けれども、禁欲や殉教のような極端な宗教行動はどのように考えればよいのだろう
信仰がそうした自滅行動へと心理的に個人の背中をひと押しすることは確かにあるのかもしれない
しかしながら、もうひとつ、考慮しなければならない大きな力がある
殉教者や聖職者も、通常の状況であれば本人の役に立ち、その他の人々にとっては大きく役に立つ、その同じ本能に従っていると考えることができる
進化心理学者は人間が「生物学的適応度を最大にしようとする」種ではないことをいち早く見抜いている
あからさまに繁殖の性交を最大限に高めようとしているとういうよりもむしろ、わたしたちは「適応執行者」なのだ。わたしたちの脳は、祖先が暮らしていた環境で祖先がたくさんの子孫を残すために役立った様々な本能に基づいているのである
そうした本能を説明するために生物学者がよく用いるたとえ話は山登りだ
このたとえ話を少し延長して宗教コミュニティの地形を火山だと考えてみよう
頂上には危険な噴火口がある
信者は強い決意で先を目指し、さらに大きな犠牲も払うが、それも自分にとって都合のよい結果をもたらし続ける
ところがある日、自分でも知らないうちに行き過ぎてしまう
これらすべての例で、ある状況では適応性のある本能が、別の状況では致命的にわたしたちを道に迷わせている